歴史的背景
1870年代、日本人移民がBC州に渡り始めた。その多くは、資源産業における豊富な仕事に引き寄せられてやって来た。当初、その大半は、財を築いて日本へ帰るつもりで渡ってきた男性達であった。しかし、時が経つにつれ、多くの人々がこの地に定住し、妻を呼び寄せ、家庭を築くようになった。
日系カナダ人がBC州沿岸の各地に定住すると、そこにコミュニティを築いていきた。商店などの事業を営み、独自の社会団体、学校、寺院、スポーツチームを結成した。また、互いの事業の発展を支えるため、事業者団体も結成した。1942年までには、約22,000人の日系カナダ人が、BC州沿岸から約160キロ以内にある約200の地域で暮らし、働いていた。日系カナダ人は、BC州の社会に深く根を張り、その一部となっていた。
カナダが1941年に日本に宣戦布告すると、すべての日系カナダ人を標的とする一連の措置が取られた。一夜にして、家や事業、財産を奪われ、それらは後に本人たちの同意なく売却された。コミュニティからは人々が姿を消し、日系カナダ人は、BC州沿岸部から強制移動させられた。 1945年、政府は日系カナダ人に二つの選択を迫った:ロッキー山脈以東へ移住するか、日本へ追放されるかである。約4,000人が戦禍に見舞われた日本へ追放された。カナダに残った人々も各地に散り、生活とコミュニティを一から立て直すことを余儀なくされた。
1949年4月1日、戦争が終結してから4年後、日系カナダ人はカナダ国内を自由に移動する権利を含む、完全な市民権を認められた。しかし、BC州に戻ったのは半数にも満たない人々であった。
ローワー・メインランド
カナダにおける初期の日系移民の人口は、主にバンクーバーのパウエル・ストリート周辺に集中していた。これは、ウォーターフロントにあったヘイスティングズ製材所の雇用慣行によるところが大きな要因であった。 キツラノ、マーポール、フェアビューでは、製材所や造園作業の仕事場の近くに、日系移民のコミュニティが形成されていた。起業家たちは下宿屋やレストラン、さまざまなサービス業を始め、その中にはBC州各地の遠隔地のコミュニティへ進出する人々もいた。
スティーブストンのウォーターフロントにある缶詰工場には、多くの漁業を営む家族、造船業者、地域サービスが集まり、BC州沿岸部やフレーザー川沿いの漁業コミュニティの中心地となった。
豊かな土壌に恵まれたフレイザー・バレーには、何百もの農家が暮らしており、彼らは温室栽培に革新をもたらすとともに、この地域を『カナダのベリー栽培の中心地』へと発展させた。
製材所の町バーネット、ウッドフィブル、フレイザー・ミルズなどの製材所の町や、ブリタニアなどの鉱山の町は多くの労働者が集まった。
ノース・コースト
BC州の太平洋岸北部には、ハイダ・グワイ、ナス川、スキーナ川、ポート・エシントンなどの地域に日系カナダ人が移り住んだ。
日系カナダ人は、アランデールやミル・ベイなどの地域で、ニシュガの人々とともに働いていた。ナス川沿いの缶詰工場には、多くの漁業の家族が住み込んでいた。重要な港であり、鉄道輸送へのアクセス拠点でもあったプリンス・ルパートでは、商業の中心地が形成され、カウ・ベイやシール・コーブでは船大工たちを支えていた。魚の大きさや種類が豊富だったことから、スティーブストンから季節漁業に従事する漁師たちが集まった。1942年までに、BC州の日系人漁船団は約1,200隻にのぼり、スティーブストンから北部のコミュニティに至る地域で漁業を行っていた。
セントラル・コースト
19世紀初頭、林業や漁業が盛んになるにつれて、BC州の太平洋側にある遠隔地の中部沿岸地域にも、小規模な集落が次々と誕生した。オーシャン・フォールズ、リバーズ・インレット、ベラ・クーラ、シーモア海峡、ナイト海峡、アリソン・ハーバー、オブライエン・ベイ、シムーン・サウンド、トバ・インレットなどの地域が挙げられる。
内陸地域とクートネイ地域
オカナガン地方における初期の開拓者の多くは農民であり、自らの土地を購入できるようになるまでは、農園や果樹園に雇われて働いていた。彼らが築いたコミュニティには、コールドストリーム・牧場、ウィンフィールド、オカナガン・センター周辺、ベラ・ビスタ、ラトランド、オヤマ、サマーランド、バーノン、そしてケロウナなどが挙げられる。
1942年、日系カナダ人の生活が強制的に移動させられた際、一部の人々は沿岸100マイル(約160キロ)の制限区域を越え、オカナガン地方の農場で働くための許可証を受け取ることができた。農村コミュニティであったグランド・フォークスは、家族が離散せず共に暮らすことを望んだ日系カナダ人の家族を温かく迎え入れた。
バンクーバー島とグルフ島
バンクーバー島の豊かな森林と沿岸地域は、多くの労働者や漁師を惹きつけた。その結果、林業のシュメイナスやエングルウッド、カンバーランド(炭鉱)、テレグラフ・コーブ(漁業)、そしてポート・アリスやポート・アルバーニ(パルプ・製紙業)といった、沿岸部の開拓集落が次々と誕生した。
バンクーバー島周辺沿岸地域や南ガルフ諸島の沿岸地域はニシン漁やそれに続く加工産業を惹きつけていた。日本の炭焼き窯が、多くの島々で再現された。ナナイモのニュー・キャッスル島とその周辺地域は「世界のニシン首都」と知られるようになり、塩漬けチャム・サーモン(シロザケ)やいくらも海外へ出荷された。
首都ビクトリアには多くの日系カナダ人が暮らしており、その中には裕福なビクトリアの家庭で住み込みの家事手伝いとして働く人々もいた。1907年、Hayato Harry
TakataとYoshitaro Joe Kishidaはエスクィマルトに多くの人々に親しまれた日本庭園を開園した。Joeの父親、Isaburo Kishidaは日本の造園家であり、1910年頃にティー・ガーデンと日本庭園をブッチャード・ガーデンに設計したほか、またロイヤル・ローズ大学の日本庭園も手掛けた。1887年にさかのぼり、ロス・ベイ墓地には約150名の日系人が埋葬されている。1937年日系カナダ人コミュニティが出展した山車は、ビクトリア市75周年記念パレードで最優秀賞を受賞した。この節目を祝うため、日系カナダ人コミュニティはビクトリア市に1,013本の桜(観賞用の桜の木)を寄贈した。これらの桜は、現在も花を咲かせ続けている。
ソルト・スプリングス島は早くも1892年には、日本からの移住者の定住地となっていた。彼らは当初、漁業や林業の為に移住してきたが、次第にベリー農園、養豚、大きな敷地に温室栽培などへと仕事を広げていった。1941年、ソルト・スプリング島における日系カナダ人の人口は約77人であった。彼らは合わせて、計1,000エーカー(約405ヘクタール)を超える農地を所有していた。
日系カナダ人は、先住民の家族、米国から解放された黒人、ハワイ出身者、中国人、そしてヨーロッパ系の入植者など、多様な民族で構成されたコミュニティの重要な一員でした。
今日、西海岸の各地に築き上げられた200もの戦前の日系カナダ人集落、そして州の内陸部に存在した定住者の痕跡はほとんど残されていない。